昭和44年8月4日 朝の御理解
中村良一
御理解 第22節
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」
二十一節の最後のところに、信心なければ世界は闇なりとこう仰るが、その、闇の世界から、光明の世界への、一大転換とでも申しましょうかねぇ。そういう転換を期す事が出来るような御教えですね。闇の世界から、光明の世界への、一大転換をなす事が出来るというように、まぁ大事な御理解だと思いますね。どうでも一つ、ここのところを、実証させて貰えるほどしのおかげを受けなければなりません。教祖様が、嘘を仰ってはいない。本当に、教祖様の仰る通りにすれが、こういう光明の世界に住むことが出来るんだというおかげをね、お互いが、現していかなければいけません。ね。天地金の神といえば、天地を一目に見ておるぞという事は、一目に見ておられるだけではなくて、天地を自由にしておられるという意味のことにもなりましょうね。いうなら、私共の、幸不幸の鍵を預かってござるといったような感じですね。ですから、その、幸不幸の鍵を、私共が頂かなければ、お借りしなければ、私共は、幸せにはなれない。そこで、先ず、ここで問われておるのは、受け物が悪ければとこう仰っておられる。ね。神様はもう、平等におかげを授けて下さってある。けれども、受け物が悪ければ、おかげが漏るぞと。ここんところから、信心のある者とない者の違いを、段々感じます。ね。信心があっても、受け物が悪ければ、おかげは漏ってしまう。そこで、おかげの受け物といえば、どういう事になるかと言うと。いわゆる、おかげは降るようにとも仰っておられますよね。おかげは、天から降るようにある。ね。天恵地利といったような御理解を頂いたことがありますが、天はもう、恵みに恵み続けておられるのです。いわば、雨が降るようにですね、降るようにあっておるのです。それが、雨には濡れてはおるけれども、それを受け止めておらん、受け物がないからです。ね。それを、受け止めておるのは、いわば、大地なんです。
そこで、私共が、大地のような信心をさせてもらえれば、おかげを受けられる事が分かります。ね。いわゆる、土のような信心と言うのです。大地、ね。ここには、いわゆる、不平を言うちゃならん、不足を言うてはならんと、こういう風に申されますが、もう、黙って受けているんですから、もう不平もなければ、不足もないはずです。ね。いわゆる、私は、そこん所を、自然、成り行きを大事にする、ね。合掌して受けて行けと言うのは、大地の信心なのですよ。ね。それに、向こうが向こうなら、こっちはこっちというような受け方をする。ね。
先日、月次祭の後に、福岡の松岡さんの奥さんが、控えのほうへやってまいりましてから、先生もう、今日の御理解はもう、私が、一人で頂かんならんような御理解でしたと言うて、月次祭の日の御理解の事を言われるんです。ね。例えば、後者の人は、もう、不足を言うちゃ馬鹿らしか。不満どん言いよったぶんな、こげん損する事はなか。もう、天地の道理と言うものはです。そういう人の上には、おかげは恵まれない。だから、もう、良くと二人で不足は言わんぞ、不満は言わんぞという事です。だから、それでも、おかげは受けられない。どげん、不足不満を言わねばならない時であっても、そこで言いよら、損する。おかげは受けられん。こげん馬鹿らしかとはなか。けども、そこすら、信心しよって、わかっとらん人があるという事ですよ。そういうような御理解を頂きましてから、言われるんです。先生、これから、私はもう、不平不足どん言うた時にはですね。迂闊に、もう言わんと決めておるけれども、言うたならばです、ね。千円ずつ、こう取り上げられるという気持ちにならせて頂くと、こう言うのです。不足を一遍言うたら、千円取られる。ね。愚痴不足でも言いよったら、また千円取られる。それこそ、日に何遍、千円ずつ取られるか分からん。そうすると、人間は、こすかけんでですね、払うごつなかから、まぁ、言わにゃんてちゃ、一生懸命、我慢してから言わん。さぁ苦しいから、それを、金光様、金光様と言うて、心を神様に向けるという訳なんですよ。ですから、ここんところがですね、受けものが悪ければ、おかげが漏るぞと仰るのですから。私共は、そういう一つの工夫でもしてからでも、受け物を作っていかなければいけない事が分かりますね。だから、銘々工夫しなければいけません。
おかげは降るようにある。ね。神は、平等に、おかげを授けてある。ね。天から、雨が降ってくるように、それを、その雨には濡れてはおる。ね。合うてはおる。だだそら、濡れておるだけ。受けものがないから、受けてはいない。そこで、受け物と言う、言うなら、一番間違いのないというならばです。大地を叩くようにと、間違いの無いことを申しますよね。大地を叩くように、間違いのない事は、だから、大地のような信心をする事なんです。ね。大地のような信心と言えば、ね。いわゆる、不平不足を言わずに、黙って、成り行きを大事に、合掌して受けて行こうとこう言うのである。そこに、あっちがあっちだから、こっちもこっちと言った様なものは許されない。ね。そこで、今、松岡さんじゃないけれども、不足を言うたら、千円ずつ取られると言う様な気持ちでです。不足を言うたら、千円ずつ損するという。本当言うたら、千円ぐらいのことでは利かんでしょうね。ね。という様なです、私共は、不平不足を言うことは、そういう大損をしておる事なんです。ね。石井清さんじゃなかばってん、損するんだもん。不平不足を言うたら。ね。それを、私は、本当に一つ、分からせて頂く事によって、降るように下さってあるおかげを、受け止めさせて頂くというための、様々な工夫を、まぁさせて頂かなければなりません。そして、なるほど、不平を、不足を言うちゃ、馬鹿らしいと言うのではなくて、不平を不足を言うちゃ、勿体ないという事にならにゃいかんと思う。そこからが信心です。
これほどしのおかげを頂いておって、不平不足どん言うちゃ、勿体ないという事になって来るんです。ね。言うちゃ損するというところから、そういう風に、こう飛躍してくるですね。本当の事が分かってくる訳なんです。不平不足を言うちゃ勿体ない。だから、合掌して受けられる訳です。ね。それが、受け物を作る。次には、神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばならぬ。天地は一目に見ておるぞと仰るような徳。いわば、天地が自由になられると仰る、言うならば、人間の幸せの鍵を握ってござるという、その鍵を、私が、預からせてもらう。それをお徳と言うのです。ね。お金が要る時には、金庫から、カチッと言わせてから、出しゃ良いでしょう。健康といや、それこそ、どういう薬でも勝たんような、いわば、薬以上の薬が頂けるようなおかげを、その加減によって出せば良いでしょう。言うなら、人間、幸せになっていくことのための、必要な事柄やら、必要なものやらをです、ね。必要に応じて、その時、その時に、頂いて行けれるようなおかげを頂く。そういう鍵を握ってござるのが、神様ですから、そういう鍵を、こちらのほうへ渡してもらう。そういう鍵を、こちらに頂く。それを、ここでは、お徳と言う。ね。神の徳を十分に受けようと思えばと。天地金の神と言えば、天地を一目に見ておるぞと仰るほどしのですよ。そういう天地の親神様のお徳を、こちらにも頂かせて貰う。握ってござる、その鍵を、こちらに渡してもらう。そういうおかげを受けようと思えば、ままよという心を出さねば、おかげは受けられません。ね。おかげの受けものは、大地のような信心。お徳を受けようと思えば、ままよという心にならなければならない。お徳と言うのは、人間、幸せの条件とでも申しましょうかね。その幸せの条件の全てがです。その時、その時に、必要に応じて頂けるような、おかげを受けることなのです。ね。それには、ほんなら、私共は、ままよという心にならなければならん。ね。ままよとは、死んでもままよのことぞと。いわゆる、信心の度胸を求め給う訳ですね。
身も心も、神様へお任せをする。ね。ままよという心は、そういう事なんです。ね。身も心もお任せする。いうならば、親先生任せになる。親先生の仰る通りにする。そこに、親先生は、あぁ言いなさるけれども、そんな訳にはいかん。もうそこには、任せるという事をしてない訳なんです。ね。親先生にお任せして、死んでしもうたじゃないの。取り返しがつかん。そこが、ままよという心になってしまう。ね。お任せしとるなら、ろくな事にゃならん。その、ろくな事にならん、どういう事になっても、任せるというのが、任せる。ね。あれは、教祖の言葉の何ですかね、実証身任せか、何かと言う言葉を使っておられますね。この事だけは任せますけれども、この事は、そんな訳には参りませんという様な事ではです。死んでもままよという事にはならんのです。もう、死んでも、ままよという事にでもなれば、死なんから、任せるとじゃったら、こらもう、死んでもままよという事じゃないんです。本当に、死んでも良いのだと。ね。本当に死んでも良いのでなからにゃいかん。ね。けれども、やはり、おかげは大地のような信心によって受けるけれども、お徳と言うのは、もっと難しいことが分かりますよね。十二分の徳を受けようと思えば、ままよという心を出せと、ね。だから、そういう稽古を、少しずつさせて貰うて、いわゆる、確信を作っていく訳なんです。ね。日々の信心の稽古と言うのは、そんなことだとこう思う。ね。少しずつ、任せていく。ね。
佐田さんが熱心に、合楽に、家族で打ち込まれるようになられて、お店のほうに起きてきた、一つの、まぁ現象とでも申しましょうかね。乾物屋さんですから、色んな、仕入れの事を、ずっとこう、仕入れるたんべんに、そのお届けになります。例えば、コブの仕入れをさせて貰う。数の子の、例えば、正月なんかは、正月前なんかは、数の子なんかやら、コブやら、するめやらと言うのを、仕入れされる。ところが、今、買うとかなければ、もう買う時はなかと思うけれども、神様は、まぁまぁ、待て待てとこう言われる。しかし、今、仕入れとかんなら、もう仕入れる時はなか。もう、いよいよ、高うなることは、火を見るよりも明らか。それでも、神様は、まぁ待てとこう言われる。ね。そこん所をです、ね。ちびちび、稽古をして行かれておる。ね。よしもう、今年は、数の子が、自分方の店になかったっちゃ、かんまんと。もうコブは、売り損ねても良いというような気持ちでです、おかげを受けられる。ね。そこには、もう本当に、人間の知恵力では、もう考えられないようなおかげを受けて、今日まで、信心を進めておられる。いかにもこう、良かこつばっかり、言うとるけれども、その反対には、起こってくる様な事も、ずーっと、三年間も続いた。これはもう、みかんの缶詰に限ってだけは、不思議じゃった。もう、親先生の言われる通りにすれば、必ず、損じゃったち。三年間続いた。だから、こらもう、缶詰だけは、これだけはもう、お伺いせんが良かと、と、普通でいうなら、言うところでしょうね。
合楽にも、沢山ありますよ。親先生に、お伺いしてからすると損すると。だから、もう、その、お伺いして損をするごたるならば、もう、自分で、適当に、自分の考えでやったほうが、確かに、損はせんで済む。いわゆる、確実に言えるわけ、感じられるわけ。そこんところがです。例えば、御理解二十一節の、最後の所に、信心なければ、世界は闇なりとこう仰る。ね。今日の御理解は、その闇の世界から、光明の世界への転換だと。そこで、今度は、その二十二節から、二十三節に、ちょっと移りますとね。氏子が神と仲ようする信心ぞと。神を恐れるようにすると、信心にならん。神に近寄るようにせよと。神を恐れるようにすると、もう、信心にはならんと、二十三節で仰っておられます。ね。だから、損ぐらいしたって、怪我ぐらいしたってですよ。神様から、遠のくというか、神様を恐れるような。そらもう、神様の言われる通りすると、必ず、損するけんでと言うのは、もう神様を恐れた訳です。ね。だから、神様を、恐れたんでは、もう、信心にはならぬと仰る。ね。そこで、二十一節、二十二節、二十三節。もう、その真ん中にある、二十二節と言うのが、このように大事だという事になって来る訳です。そこん所を、教えておられる訳です。ね。いわゆる、ままよという心にならなければ、ね。神様はね、決して、ニコニコばっかりはしちゃござらん。そばに寄ったら、叩かれる。そばに寄ったら、口上ばっかり言われる。ね。もう、そばに寄ら、何とか、用事を言いつけられる。
この頃、どうも、私の部屋に入ってくる人が、少なくなったんですよね。まぁ入らんのち言うたっちゃ、「はい」ち言うちから、表に、入り口でから動かん。私は、夕べも、その事を、みんなに言うた。ちょうど、あそこに、何人か居りました。ちょうど、善導寺の御大祭から、長男と長女が帰ってまいりましたから、初め、長女が、ただいまと言うて、あそこからきよる。私は、様子を聞こうと思うてから、まぁちょいと、入らんのと言うたけども、表で待っている。しばらくしたら、今度は、長男が帰ってきましたから、ほんなら、この人に聞こうと思うちから、まぁちょいと、入らんの、入らんのと言うたばってん、はぁち言うちから、もう、何とかかんとか、ごまかすようにして、入らん。それで、私が、皆さんに申しました。ちょうど、そこへ、四五人、お話しよりましたから。こらもう、娘やら、息子だけじゃない、この頃、もう誰でも、私が部屋に入ってくうごつなかごたる風じゃが、こら、私もいっちょ、考えなきゃいけんのじゃなかじゃろうか。私が、ニコニコばっかりして、喜ぶようなこつばっかり、言うたり、ただ、お茶どん、でーたり、お菓子どん出たりするばっかりなら、誰でん入ってくるじゃろうばってん。顔みりゃ、どうか言うもんじゃから、皮肉を言われたり、怒られたりするからじゃないだろうか。こら私も、考えなければいけんと思いましたけれども、今日の御理解を頂いておると、やっぱ、そうじゃない。例えば、怒られたっちゃ、用事を言いつけられても、やっぱり、入ってこなければ、おかげは受けられん。ね。
神と仲ようする信心。神様を恐れるようにすると、もう信心にはならんと仰っておられる。一遍二遍、損したからと言うて、ね。次々と、お願いをさせて頂いたら、思うようにならじゃったからと言うてです。神を恐れるようにしては、もう既に、信心にはならん。いわゆる、ままよという心を出し切っていないから、これではもう、絶対、お徳は受けられないことになりますですね。
十二分の徳を受けようと思えば、ままよという心になれ。そのお徳と言うのは、先ほど申します様に、いわば、幸せの全てが頂けれる鍵を頂くようなものだと申しましたですね。そこで、私共、段々、信心の体験をです、ね。積ませて頂いて、ね。いわゆる、全てが神愛であるという様な大悟と言うかね、大きな悟りを開かせてもらう。この世には、困ったこともなからなければ、怖いものもないんだと。ね。困ったと思うておったのは、心の迷いであったと悟らせて貰い。怖いと思うておったのは、神様が、いよいよ、度胸を作らせて下さろうとする、御神意より他にはなかった。あるものは、神愛だけであったという悟りに到達すると、どのような場合でも、腹が決まる。ままよという心になれる。だから、いよいよ、お徳が受けていかれるという事になるのです。ね。そこにいたって、始めて、私は、この世が光明の世界と申しますね。いわゆる、闇の世界から、光明の世界への、一大転換を気する事が出来るわけなんです。ね。だから、金光様のご信心ちゃ、実に、そういう気になって、させて貰えば、実に楽しいことなのですよ。毎日、大地にならなければ、ね。その、いけないというような稽古の材料は、もう沢山あるですから。ね。
また、本当に、親先生任せ、神様任せにならせて頂かなければならないといったようなです。問題は、幾つもあるのですから。それを、自分勝手にしたり、ね。それこそ、千円ずつも二千円ずつも取られておる様な事は知らんな、分からんなり、平気で不平不足を言うたりする。そして、お金に難儀しておる。取り上げられておるからですよ。折角、頂こうとするものを。もう、頂きかけておる時に、また、不平不足を言うから、また途中で、そのお金が、逆戻りしよる。ほんの、そばまで来とってから、お金を頂ききってない。まぁお金だけじゃありませんよ。頂ききっとらんといったような感じなんですね。そういう有難い、しかも楽しいですね。私は、本気で、信心の稽古をさせて貰えば、そういう稽古が出来れる、いわば、道を、私共は、日々、このようにして、教えを頂いておるのでございますから、本気で、ね。ただ、お参りをして、お話を聞いてというだけではなくて、ね。実際の上に、その信心が、お役に立ってこないとです。信心の稽古の楽しみと言うものがありません。
私共は、闇の世界から、光明の世界を願っての信心でなからなければならん。為にはです、ね。神様を、いよいよの時に、怖がるような信心では、もう信心にならんと仰せられますから、ね。そこん所を、腹を決めての信心。不思議です。一生懸命の、例えば、信心修行が出来ておる時にはですね。普通は、任せられなくても、一生懸命の信心修行が出来ておる時にはです。不思議に、どのような場合でも、ままよという心になって、お任せできることが、する事が出来るような心が開けてきます。ね。そういう意味で、修行が大切ですね。どうぞ。